天ケ須賀地区


住吉神社

 富田六郷氏神記の中に、「空海の説教を聞いた17,8才の美女は、たちまち信心を起こし、池の中に飛び込んだ。これよりその池を美女が池、または天女が池と名づけた。この池の東方に弁財天をあがめまつる。また、後に民家あり、天ケ須賀村と名づく」と書かれています。空海(773〜835)の時代に、天ケ須賀に人家があったとは考えられませんが、昔、この集落には池があり弁財天が祭られていたといえます。
 ほかに、言い伝えとして、400年ほど前に西富田から天ヶ須賀へ移り住んだ一族があったといわれています。また、確かな記録としては、蒔田町の寺の過去帳に、17世紀後半の頃、初めて天ヶ須賀の人の名前が出てきます。更に、天野家の家系図によると、江戸時代の初め頃に、大矢知地区から移り住んだとも書かれています。
 以上の点から推測すると、天ヶ須賀は、江戸時代の初め頃から人が住み始め、集落ができてきたと言えます。その後、人家も増し、江戸時代の中ごろにには、船仲間が大阪から住吉大明神をもらいうけ、それまでの弁天さんに合わせて祭りました。また、その頃に現在の町の区画を作り、江戸(東京)の町名をまねて、江戸町や岩戸町などと名づけたそうです。他に、島崎町、北町、岩戸町、中町、寺町、本町、南町、港町などがあります。また、桑名藩領であり、漁業・廻船業がさかんでした。
 明治後期から水産加工業や蛤採取が盛んになりました。その後、大正時代になると、紡績工場もいくつかでき、中でも平田紡績工場が大きく、魚網の生産が始まり、工業が発展していきました。海岸沿いの須賀浦海水浴場が遠浜の海水浴場として有名となり、昭和4年の伊勢電鉄の開通にあわせて観光客も増えました。
 昭和時代になると、大きなことでは伊勢湾台風の被害があげられます。この地区一帯でも、多くの被害がありました。その後になると、名四国道の開通に伴い、須賀浦海岸は埋め立てられ、国道に沿って長い堤防が築かれました。天カ須賀の「須賀」にあらわされる、引き潮のときに現れる海辺の洲は見られなくなってしまいました。
 また、この地区には、石取祭りがあり、ドンドンカーンカーンカンカンシャカシャカと太鼓や大きな鉦の音が町中に響き渡ります。お盆のころには活気に満ちた祭りとなっています。(一部百周年記念誌より引用)


住吉神社へ続く道