伊勢湾台風時最大潮位

 「富洲原」という地域名の由来は、明治22(1889)年、富田一色村・天ケ須賀村・松原村の3か村が合併した時に、富田一色村の「富」、天ケ須賀村の「洲(須)」、松原村の「原」の三字をとり、「三重県朝明郡富洲原村」が誕生したことによります。「須」が「洲」とされたのは、この地域に、葦が多く生えている浜や沼が多かったという、当時の地域の様子を後世に伝えるために変えられたとも言われています。また、富田一色、天ケ須賀、松原は、江戸時代より、富田を中心とした、富田六郷として親密なつながりをもってきました。そこで、新しく誕生した富洲原村は、富田と関連づけて、頭に「富」という字を持ってきたともいわれています。なお、村役場は竜泉寺庫裏にありましたが、明治33(1900)年に飛鳥神社前に移転しました。(現在の富田一色公会堂)
 この地域では、明治初期から漁業がさかんで、いわし・ひしこ・蛤などがとれ、魚問屋や行商人も増え、全国各地に売り歩いました。現在でも、それらに関係する工場がいくつか残っています。また、松原の東洋紡績富田工場や、平田紡績の設立などで、繊維工業もさかんになり工業都市四日市市の一役を担っていました。しかし、時代の流れとともに、各紡績工場は地域から撤退し、そこへ、大規模な住宅地やマンション、商業施設が建設されました。またJR線近鉄線や国道1号線23号線の開通など、交通網の発達もめざましく、人口も激増しました。
 それから、この地域は、昭和34年9月26日、伊勢湾台風の被害に遭っています。強烈な風と激しい雨にみまわれた上、高潮に襲われました。高潮の高さは、なんと7メートルに達したのではないかと言われています。高潮は、海岸沿いの堤防をのりこえたり破壊したりして、午後9時頃には富洲原地区全域が泥水や海水に浸かったと言われています。当時、避難命令が出ていたため、2階や屋根裏、屋根瓦にまで逃げていた人も多かったようですが、迫りくる水を見ると、生きた心地がしなかったそうです。強烈な風にあおられていたところへ、あっという間の浸水で、富洲原地区で58名もの尊い生命が水に呑まれてしまいました。この数を見ただけでも富洲原地区の被害の大きさが推測できます。そして、たくさんの家屋や財産も倒壊流失して、全く悪夢のような夜であったそうです。なお、伊勢湾台風の被害から40数年が過ぎた今、当時をしのぶ面影は、町の中からだんだんと消えつつありますが、永久に殉難者の冥福を祈って、富田一色緑地公園に慰霊碑が建立されています。
 また、4と9の付く日には、四九(しく)の市が開かれています。東洋町の市道に、町の人が育てた野菜類、魚介類、衣料品などが売られ、活気に満ち溢れています。


国道1号

地域の人々で賑わう「四九の市」

国道23号