富洲原地区は、昔の様子を伝える遺物や遺跡がほとんどない歴史の浅い地区です。その中で、松原地区は、聖武天皇ゆかりの地として、古くからその名が知られています。奈良時代、藤原広嗣が九州で争いを起こしたので、聖武天皇はこの争いにまきこまれるのを避けて、都を離れ伊勢(今の三重県)を通って美濃(今の岐阜県)に行きました。この旅の途中、朝明の郡家に到着し、そこで二泊しました。この朝明行宮(あんぐう)で詠んだ歌
「妹(いも)に恋ひ 吾(あが)の松原 みわたせば 潮干(しおひ)の潟に 鶴(たづ)鳴き渡る」(万葉集1030番目の歌)
が、万葉集巻第六にのっています。この歌は、都に残してきた皇后を恋しくなつかしく思いながら、松の林を通って海辺の方を眺めると、干潟でえさをあさっていた鶴が、大きな声で一声鳴きながら飛び立っていった様子を詠んだものと思われています。
「吾の松原」については、安濃(今の安濃町)や若松(今の鈴鹿市内)の松原であるなど、いろいろな説があって、その所在は明らかではありません。しかし、「吾の松原」は、歌の注によると、「三重郡に在り」とあるところから、この辺の松原をさすものと推定されます。また、この地域付近には、松原、松寺、高松など、松の付く地名が多いのですが、富洲原地区の松原町は、この歌の「吾の松原」から名前を付けたといわれています。
この松原町には、松原公園、聖武天皇社があり、そこには歌碑があります。また、7月には聖武天皇祭りがあり、「ゴンチキチン ゴンチキチン」と鉦を鳴らして町を練る「石取祭り」が催されています。この地区の祭りとして大切に受け継がれています。
また、この地区には東海道、八風街道に近く、江戸時代(桑名藩だった)から交通の便がよかったようです。明治22年(1889)には富州原村、大正12年(1923)には町制が実施され富州原町の中心となりました。明治27年(1894)には、松原地区の南部に関西鉄道富田駅ができました。大正6年(1917)には、南東部の田地に東洋紡績富田工場が操業を始め、東洋町商店街ができ活気に満ち溢れていました。昭和4年(1929)には、伊勢電鉄の富洲原駅が西部に開設され、昭和7年には国道1号線が開通し、この地区はますます発展していきました。
富州原町の東洋紡績富田工場の進出後、同社の社宅(現在の四日市松原郵便局があるところ)などができて市街化が進みましたが、昭和40年(1965)頃から東洋紡績の従業員が減り、地区の人口も減っていきました。平成に入り、東洋紡績富田工場の閉鎖とともに工場が取り壊されたあと、大型の商業施設が建設されました。一部、工場があった頃をしのぶレンガ造りの倉庫がそのまま店舗として使われています。
(一部百周年記念誌より引用)
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