富田一色地区は、多くの人が他の地区から移り住んできた人たちでできた地区です。それは、富田地区の古い寺からうかがい知ることができます。そのため、「富田」の名称がつけられているようです。また、その村の分村である「居敷」が「一色」のもとの意味で、先祖の人たちが「富田」から移り住んで形成された集落であると考えられています。また、富田一色の「一色」という地名は、新しく開拓された土地につけられる名称でもあるようで、それほど古くはない土地と言われています。この地区の寺の記録によると、時期ははっきりしませんが、室町時代後期には、小集落ができていたようです。この富洲原地区付近には、「豊田一色」「浜一色」と「一色」の付く地名があります。この富田一色地区と同様に、新しく開拓された土地であると考えられています。
江戸時代に大火があり大きな被害があったようです。しかし、その後、広小路をつくり小さな町割りを決めてこの地区の発展につなげたようです。300年も昔の集落の形式としては、大変優れたものでありました。町割りでつけられた名称には、北町、南町、堺町、中町、北條、南條、本町、寺町、八間家、山ノ神町、港町、大黒町、夷町、布袋町、弁天町、江戸町、豊富町、旭町などがあります。その町割りでつけられた各町名は現在でもこの地区の自治会や学校内での町別児童会の名称として使われているものもあります。また、江戸時代には、朝明郡の一村で桑名藩領でありました。富田一色港があって廻船問屋も多かったようです。東海道、八風街道にも近く、陸、海の交通の便もよかったようです。
明治時代には、漁業がさかんになり、干魚や塩魚、時雨蛤を売る行商も多くいたようです。また、この頃には、富田一色地区を繁栄させようと伊藤平次郎氏が苦難の末に橋を架けました。同氏の功績をたたえ「平次郎橋」と命名され、今でも地区の重要な橋となっています。大正・昭和の時代には、東洋紡績富田工場などの操業で、繊維業が盛んになりました。そのため、富田一色港や付近を流れる運河も改修されたようです。
また、伊勢湾台風時には、甚大な被害に見舞われました。当時の被害を示すものはほとんど残っていませんが、富田一色に架かる海運橋には、その時の潮位を示したものが立てられていたり、富田一色緑地公園には慰霊碑が建立されていたりします。
また、お盆の頃になると、勇壮な「けんか祭」が催され、毎年多くの人の賑わいを見せています。(一部百周年記念誌より引用)
|