1996年、バブル崩壊後、日本経済が低迷していた頃、ドラマやCMとのタイアップなしにデビュー曲を突如ヒットさせ、彗星の如く現れたのが女性デュオ「パフィー」。続く2曲目も大ヒット。タイトルは「これが私の生きる道」。その中に「うまくいっても だめになっても それがあなたの生きる道」というフレーズがでてきます。人間、だめになったり失敗した時には、誰かにすがって救いを求めたり、誰かのせいにして責任をなすりつけたりしたくなるもの。そんな「すがりつき」や「なすりつけ」をやんわり追い払い、「うまくいったら自分の力、だめになったら人のせい」という人間の弱さを打ち砕く、痛快なフレーズです。人間、最後は自分、自分の力、自分の努力ですよね。(ちなみに「これが私の生きる道」は、某有名化粧品メーカーのシャンプー&リンスのCMソング―しっかりタイアップ!―でして、タイトルの漢字部分だけを音読みで続けて読むと、そのメーカーがわかる仕掛けです。) ************************* 僕は、1万円近いチケットを買ってまで、生でコントを見にいくほど、志村けんの大ファンなのですが、彼が所属していたのがザ・ドリフターズというグループ(彼は、今は亡き荒井注さんに代わって途中からグループに加入)。ドリフターズは、毎週土曜日の夜8時から「8時だよ、全員集合!!」という番組をやっていて(昭和44〜60年)、今の40歳以上の多くは見ていたと思います。たとえ、PTAに「低俗番組」と烙印を押されても、視聴率は常に20〜30%台。子供たちは加藤茶や志村けんのギャグをまねしまくってました。全員集合が凄いのは、毎週(スタジオではなく、いろんなホールでの)公開生放送だったこと。よって、テレビには観客の生の笑い声が響きます。(今の多くのお笑い番組のようにスタッフのせこい笑いや紛い物の効果音じゃない!!)中1の時、そんな全員集合が、当時僕の住んでた街(まち)で公開放送される事になり、観覧希望のハガキを出したところ、見事に当たったので―もしかして先着順だった?!―本番当日勇んで見に行きました。すると、見るからに異形な中学生集団がいるではありませんか。彼らは、本番が始まるとコントやゲスト歌手の歌の途中で汚いヤジを飛ばしたり、暴言を吐いたりして大迷惑、大顰蹙(ひんしゅく)そのものでした。番組終了後、リーダーであるいかりや長介さんがステージ中央に立ち、満員御礼の挨拶を始めました。その際に、憮然とした表情、毅然とした態度で長さんが言った言葉が今でも忘れられません。「今日は、心得ちがいのお客様がおいでになっておられ、本当に残念でした。」僕にとっても、残念ながら、楽しいはずの思い出が苦い思い出になってしまいました。 3月11日には、厳粛な雰囲気の中、凛(りん)とした卒業式を迎えたいと思っています。 ************************* ついに、そして、あっという間に卒業式がやってきた。その日が近づくにつれ、気持ちが高ぶってきているのが自分でもわかっていた。クラスの生徒から「先生、絶対泣くで。」と言われるたびに、「泣くわけないやろ。」と強がってはみたものの・・・。 当日、やっぱり泣いていた。僕だけじゃない。ベテランのA組の先生も、一年先輩のC組の先生も泣いていた。生徒のほとんども泣いていた。ツッパリ系の連中もみんな目を真っ赤にして泣いていた。嗚咽をあげてる者もいた。その中にAの姿もあった。Aは式が始まる前から目を赤くし、式の間中ずっと歯を食いしばりながら泣いていた。 式が終わると、運動場で3クラスの生徒全員と3年生担当教師6人だけのお別れの儀式が行われたが、そこでもみんな泣いていた。最後に、一人一人と握手をして送り出した。もしかすると、これでもう一生会うことがない生徒だっているだろう、「夢に向かってがんばれ!」と心の中で言いながら固く手を握っていった・・・。 職員室に戻ってくると、Aがやってきた。後ろにお母さんが寄り添っていた。 「母さんが、先生と校長先生に会いたいって。」 校長先生にその旨を伝え、校長室に入ってもらった。お母さんは、赤ちゃんほどの大きさの新聞包みを手に抱えていたが、ソファーに腰を下ろすこともなく、 「この子がいろいろとお世話になりました。この学校をこうやって卒業できてほんとによかったです。ありがとうございました。」と言い、深々と頭を、Aもいっしょに、下げた。万事承知の校長先生は、Aの頑張りを褒め称え、お母さんの労をねぎらった。 すると、お母さんが新聞の包みをほどきながら、僕に向かって言った。 「これ、お礼の品と言ってはなんですが、この子が、先生にぜひ食べてもらいと言って、今朝、裏山から掘り出してきたんです。どうか、もらってやって下さい。」 それは、土のついた、70cmほどのタケノコだった。 「いいんですか。A、おまえ、これ、わざわざ、今朝掘ってきたん?早起きしたやろ?」 「うん。」 「そっかあ・・・、ありが・・・・・・」 とても言葉にならなかった。Aと僕はこの日何回目かの握手をしながら、じっと見つめ合った。そんなに長い間じゃないのに、荒くれていた頃のこと、2人激しく掴み合ったこと、駆けずり回ってAを探したこと、家の事でAが泣き喚いたことなどが次々に甦ってきた。そして、やっと言葉をー月並みな言葉だがー喉の奥から絞り出した。 「がんば・・・るんやぞ。お母さん・・・を大事にな。親孝行せな・・・あかんぞ。」 「わかっ・・・・・・・。」あとは言葉にならなかった。 しばらくして、Aは、晴れ晴れとした笑顔でお母さんと共に帰っていった。目標にしていた県立高校の合格通知がAのもとに届いたのは、その一週間後のことである。
写真は2組の最近の様子
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