3年生より

 もうひとつの学年通信 No.29 2008.2.20(水)2008.2.20
1996年、バブル崩壊後、日本経済が低迷していた頃、ドラマやCMとのタイアップなしにデビュー曲を突如ヒットさせ、彗星の如く現れたのが女性デュオ「パフィー」。続く2曲目も大ヒット。タイトルは「これが私の生きる道」。その中に「うまくいっても だめになっても それがあなたの生きる道」というフレーズがでてきます。人間、だめになったり失敗した時には、誰かにすがって救いを求めたり、誰かのせいにして責任をなすりつけたりしたくなるもの。そんな「すがりつき」や「なすりつけ」をやんわり追い払い、「うまくいったら自分の力、だめになったら人のせい」という人間の弱さを打ち砕く、痛快なフレーズです。人間、最後は自分、自分の力、自分の努力ですよね。(ちなみに「これが私の生きる道」は、某有名化粧品メーカーのシャンプー&リンスのCMソング―しっかりタイアップ!―でして、タイトルの漢字部分だけを音読みで続けて読むと、そのメーカーがわかる仕掛けです。)
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 僕は、1万円近いチケットを買ってまで、生でコントを見にいくほど、志村けんの大ファンなのですが、彼が所属していたのがザ・ドリフターズというグループ(彼は、今は亡き荒井注さんに代わって途中からグループに加入)。ドリフターズは、毎週土曜日の夜8時から「8時だよ、全員集合!!」という番組をやっていて(昭和44〜60年)、今の40歳以上の多くは見ていたと思います。たとえ、PTAに「低俗番組」と烙印を押されても、視聴率は常に20〜30%台。子供たちは加藤茶や志村けんのギャグをまねしまくってました。全員集合が凄いのは、毎週(スタジオではなく、いろんなホールでの)公開生放送だったこと。よって、テレビには観客の生の笑い声が響きます。(今の多くのお笑い番組のようにスタッフのせこい笑いや紛い物の効果音じゃない!!)中1の時、そんな全員集合が、当時僕の住んでた街(まち)で公開放送される事になり、観覧希望のハガキを出したところ、見事に当たったので―もしかして先着順だった?!―本番当日勇んで見に行きました。すると、見るからに異形な中学生集団がいるではありませんか。彼らは、本番が始まるとコントやゲスト歌手の歌の途中で汚いヤジを飛ばしたり、暴言を吐いたりして大迷惑、大顰蹙(ひんしゅく)そのものでした。番組終了後、リーダーであるいかりや長介さんがステージ中央に立ち、満員御礼の挨拶を始めました。その際に、憮然とした表情、毅然とした態度で長さんが言った言葉が今でも忘れられません。「今日は、心得ちがいのお客様がおいでになっておられ、本当に残念でした。」僕にとっても、残念ながら、楽しいはずの思い出が苦い思い出になってしまいました。
 3月11日には、厳粛な雰囲気の中、凛(りん)とした卒業式を迎えたいと思っています。
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 ついに、そして、あっという間に卒業式がやってきた。その日が近づくにつれ、気持ちが高ぶってきているのが自分でもわかっていた。クラスの生徒から「先生、絶対泣くで。」と言われるたびに、「泣くわけないやろ。」と強がってはみたものの・・・。
当日、やっぱり泣いていた。僕だけじゃない。ベテランのA組の先生も、一年先輩のC組の先生も泣いていた。生徒のほとんども泣いていた。ツッパリ系の連中もみんな目を真っ赤にして泣いていた。嗚咽をあげてる者もいた。その中にAの姿もあった。Aは式が始まる前から目を赤くし、式の間中ずっと歯を食いしばりながら泣いていた。
式が終わると、運動場で3クラスの生徒全員と3年生担当教師6人だけのお別れの儀式が行われたが、そこでもみんな泣いていた。最後に、一人一人と握手をして送り出した。もしかすると、これでもう一生会うことがない生徒だっているだろう、「夢に向かってがんばれ!」と心の中で言いながら固く手を握っていった・・・。
職員室に戻ってくると、Aがやってきた。後ろにお母さんが寄り添っていた。
「母さんが、先生と校長先生に会いたいって。」
校長先生にその旨を伝え、校長室に入ってもらった。お母さんは、赤ちゃんほどの大きさの新聞包みを手に抱えていたが、ソファーに腰を下ろすこともなく、
「この子がいろいろとお世話になりました。この学校をこうやって卒業できてほんとによかったです。ありがとうございました。」と言い、深々と頭を、Aもいっしょに、下げた。万事承知の校長先生は、Aの頑張りを褒め称え、お母さんの労をねぎらった。
すると、お母さんが新聞の包みをほどきながら、僕に向かって言った。
「これ、お礼の品と言ってはなんですが、この子が、先生にぜひ食べてもらいと言って、今朝、裏山から掘り出してきたんです。どうか、もらってやって下さい。」
 それは、土のついた、70cmほどのタケノコだった。
「いいんですか。A、おまえ、これ、わざわざ、今朝掘ってきたん?早起きしたやろ?」
「うん。」
「そっかあ・・・、ありが・・・・・・」
とても言葉にならなかった。Aと僕はこの日何回目かの握手をしながら、じっと見つめ合った。そんなに長い間じゃないのに、荒くれていた頃のこと、2人激しく掴み合ったこと、駆けずり回ってAを探したこと、家の事でAが泣き喚いたことなどが次々に甦ってきた。そして、やっと言葉をー月並みな言葉だがー喉の奥から絞り出した。
「がんば・・・るんやぞ。お母さん・・・を大事にな。親孝行せな・・・あかんぞ。」
「わかっ・・・・・・・。」あとは言葉にならなかった。
しばらくして、Aは、晴れ晴れとした笑顔でお母さんと共に帰っていった。目標にしていた県立高校の合格通知がAのもとに届いたのは、その一週間後のことである。

 写真は2組の最近の様子

 もうひとつの学年通信 No.28 2008.2.19(火)2008.2.19
感謝の心が元気を作り出す 
前回・前々回とスポーツシリーズでしたので今回も続けたいと思います。

2000年のシドニーオリンピックの女子マラソンで,みごとに金メダルを獲得した高橋尚子選手。その強さの源は何でしょうか。
「高橋さんは,感謝の気持ちを持って,いつも与え続けることで高いパフォーマンスを発揮しているようです。
他のランナーは,周りの期待にこたえながら走ったりしてプレッシャーを感じています。一方,高橋さんは42.195キロの沿道の人たちに『ありがとう』
と言いながら走るそうです。おまけに30キロ付近で競り合っているライバルたちに『ありがとう』と言って走っているそうです。相手が『どういたしまして』と言わなくても(苦しさから言える状態ではないと思いますが)・・・」
(モラロジー研究所『道経塾』より)
 どうでしょうか。沿道で応援していただく人たちに感謝の気持ちを表すこともすごいと思いますし,ましてや過酷なレースの中であってもライバルに心から感謝の気持ちを贈れる高橋さんのすごさ(偉大さ)を感じませんか。

わたしたちは,いろんな場面でいろんな状況で,さまざまな感情を抱くことがあります。どのような場面に直面しても高橋さんのように感謝の心で受け止めることができるでしょうか。ややもすると他人のせいにしたりすることもあると思います。そんなときに,わたしたちも高橋さんのように感謝の心で受け止めることができたら,大きな力を発揮することができ,困難な状況を乗り越えることができるのかもしれません。
 現在,高橋さんは,北京オリンピックをめざしています。北京オリンピックに日本代表として選出されるには,次回の名古屋国際マラソン(3月9日)で好成績を残さなければならないようです。
 高橋さんであれば,きっと好成績を残せるのではないかと期待しています。

  私とハンドボールの出会い
 わたしが,ハンドボールとであったのは中学校時代です。わたしは,野球部でしたが,いっしょのグランドで夕方遅くまで練習していました。(当時は,下校時間はきめられていなかったので,どちらが遅くまで練習するかを野球部とハンドボール部で競っていました) 
そして,大学に入学したときに偶然ハンドボール部の活動をみて思いつきで入部。大学のチームは弱小でしたが,夏は海へ冬はスキーへとクラブ員でいっしょに活動することも多くとても楽しく過ごしました。たまたま,新規採用された中学校のハンドボール部の顧問となり現在に至っています。

 写真は昨年4月のクラブ紹介のひとこま

 もうひとつの学年通信 No.27 2008.2.18(月)2008.2.19
私が今まで関わってきたものに,オペラがあります。「オペラは総合芸術である。」と音楽の教科書には載(の)っています。
オペラに出演するためには,オーディションに合格しなければならなかったり,プロデュース制であったりするため,最近はあまりやれていないのですが,大学4年生の頃からいろんな舞台に立たせてもらいました。
オペラは歌いながら芝居(しばい)をします。時には激しい恋に燃える女性の役だったり,ヘンゼルとグレーテルの子どもの役だったり,女中の役だったり,伯爵(はくしゃく)夫人に恋する少年の役,侯爵(こうしゃく)の役,自分の声域に合わせて役を演じます。私の声はメッゾソプラノといって女性の低い声のパートなので,時には男役もやりました。
オペラの上演時間は,演目によりますが,だいたい1時間半から2時間ほどです。歌やセリフの練習は約半年ぐらいかけてやります。大学を卒業し,教師になってからは,仕事が終わってからかけつけたり,土日にやりくりをしてもらいました。両立させるのはとても大変でした。でも,舞台に立ち,お客様からもらった拍手,やり終えた感動は一度味わうとやめることができません。
オペラはモーツアルトやプッチーニ,ヴェルディ,ビゼーなど古い時代の作曲家たちが台本をもとにつくられたものです。
ほとんどの作品は,お客さんにわかりやすくするため,日本語に訳されたものを使います。言葉をわかりやすくし,役柄の気持ちを理解して伝えるのは本当に難しいです。勉強をします。いい加減な気持ちで稽古(けいこ)に行くと厳しい声がとびます。
練習には歌い手が何人か集まるだけでなく,指揮者(これも本番を振ってくださる先生の他に数名稽古をつけてくださる副指揮の方がみえます。)演出家,伴奏をしてくださるピアニスト,演出の助手の方々,たくさんの人が支えてくださいます。
舞台を作ってくださる,大道具さん,小道具さん,舞台を華やかにしてくださる照明さん,その物語に合った素敵な衣装を何日もかけて作ってくださる衣装さん,当日にはメイクやヘアを担当してくださる方も加わります。指揮者,演出家,プロデューサーの考えをもとにそれぞれプロの方々のお仕事が始まります。本番の日が近づいてくると,伴奏を担当してくださるオーケストラの方々との合同練習も始まります。
当日は舞台を裏から支えてくださる人が百人近くになり,そういうプロの方々の力を借りて,私たち歌い手は気持ちを高めていきます。
そして何よりも大切なのは,私たちの舞台を聴いてくださるお客様・・・。
会場によっては600人〜800人の人々が来てくださいます。友達や家族,自分の大切な人も応援してくれています。何日も何日もかけて,それぞれが準備してきたものを重ね合わせてオペラの幕は上がります。
本当に感謝の気持ちでいっぱいになります。
さて,私たちの卒業式・・・。みなさんの3年間分の積み重ねであって,大切にしたいものです。
本当にいろいろな思い,人の支えがあって行われる式です。当日,みなさんの姿を楽しみに見守ってくださる家族・・・。そしてみんなの気持ち・・・。卒業式もみんなで一つの作品を創り上げるオペラに似ているような気がします。
仲間がいて,真剣に取り組み,尊(とうと)いものであってほしいです。
音楽の授業で式歌の練習をしています。もっともっと歌い込んで,自分たちのものにしていきましょう。
それがみなさんの卒業式の姿につながっていきます。

 写真は2年後期の緑化委員会の活動 プランターの苗の植え替え

 

 もうひとつの学年通信 NO.26 2008.2.15(金)2008.2.18
「ほうれん草の根っこ」
 
 昨日の夜、ぼくは家で遅い夕食を食べていました。夕食のおかずに「ほうれんそうのおひたし」がありました。ぼくは「ほうれんそうのおひたし」が大好きなのですが、これを見ると少し切なくなります。

 わが家は、父と母が離婚してからとても生活が苦しくなりました。母は朝早くから夜遅くまで働いていましたが、長時間働いたからと言って給料がそれほどあがるわけではありません。小学校へは給食費や学級費などを払わなければなりませんが、払えない月もありました。当時は「集金袋」にお金を入れて現金で担任の先生に払うのですが、わが家はなかなか払えません。集金日に持っていけないと担任の先生から嫌みを言われ、友だちにも笑われます。ぼくは、このお金を払うために必死に働いている母のことを考えるととても悔しかったのですが、しかし何も言えず、ただ先生や友だちをにらんでいました。
 
 またこんなことがありました。体重測定の日のことです。保健室でみんなが服を脱いで順番を待っています。ぼくはその日、恥ずかしくて服を脱げませんでした。なぜならその日、ぼくは「もらいもの」の女性用のパンツをはいていたからです。お金がなくて服や下着を買えないために、母はいろんなところから衣類や下着をもらってきていました。その時のぼくのパンツは、そうやってもらってきた女性用のパンツだったのです。ぼくがモジモジしていると保健の先生がとても怒って「甘えるな」と言い、無理やりぼくのズボンを脱がしました。先生もみんなもどっと笑いました。ぼくは泣くまいと歯を食いしばって体重計に乗りました。
 
 さて、ほうれん草です。
 毎日の食事でも母はとても倹約していました。わが家は母一人、子一人ですからそれほどたくさんの食材はいりません。しかしそれでもぼくは食べ盛りです。それなりの量は必要です。そこで母は、普通の野菜を買うとお金がかかるので、形を整えるために切って捨てる部分や、古くなった野菜、またさらにそれを切って小さくしてもらった野菜を、安く買ってきていたのです。例えば、大根なら切り落とした葉っぱ、売れ残ってしなびた人参、虫の食べたサツマイモ、腐った部分を切り捨てたジャガイモ、などです。そして・・・ほんれんそうは、いつも「葉っぱ」の部分ではなく、「根っこ」の部分でした。

 知っていると思いますが、ほうれん草の根っこの部分は少し赤くなっています。実はこの根っこの赤い部分は、ほうれん草の中で一番「甘くて」「おいしい」部分です。しかし普通、ほうれん草は葉っぱの部分を主に食べますから、この根っこを食べずに捨ててしまう人も多かったのです。この根っこがおいしいことを知っていた母は、八百屋さんに頼み、この根っこの部分だけを切り取って売った時にそれを集めてもらい、安く売ってもらっていたのです。ですからわが家ではほうれん草と言えばこの「根っこ」のことでした。ぼくは母の料理したこの「ほうれん草の根っこ」が大好きですし、今でも時々実家に帰ると母に作ってくれと頼みます。妻にも「絶対捨てるな!」と言ってあります。食べると貧しかった時代を思い出して切なくなってしまうわけですが、それでもぼくにとっては懐かしい母の味です。

 今思うと、本当に貧しい中で必死にぼくを育ててくれた母に感謝しなければなりません。そのわりに今の自分はどれだけの親孝行をしているのだろう・・・と思うとまったく情けない限りです。

 バレンタイン・・2月14日は、母の誕生日でもあります。

 写真は去年の卒業式 送辞のシーンです!みなさんの卒業式まで、1ヶ月をきりました。

 もうひとつの学年通信 NO,25 2008.2.14(木) 2008.2.15
今日の1限目に答辞の学年発表会が行われました。クラス代表で読んでくれた人、素敵な感動をありがとう。そして、今回は皆の前で披露ができなかった人も素晴らしい答辞をありがとう。私は1つのクラスだけではなく、いろいろなクラスを訪ね、写真を撮り答辞をきかせていただきました。とても感動しました。みんなの思いがとても伝わってきました。
「入学当時、毎日が不安で登校をするのが辛かったけど、友達ができたおかげで毎日が楽しくなってきた。…………. 喧嘩もするけど今は最高の友達です。」と読んでくれた人。
また、読んだ次の日のマスターライフに「今日はとうとう答辞を読む日になりました。読む前からずっと、読んでみんなからの印象が変わったらどうしようと思っていて、すごく不安で緊張がすごかった。もしもの時にと〈泣かないため〉何回も読む練習をしたのに、緊張しすぎて息がしづらくて、本当に読むのが大変でした。でもみんなの感想で“感動した”とかいてくれてあったので『気持ちが伝わった!読んでよかった!!』と心から思えました。」と書いてくれた人。
いろいろな人の思いが伝わった最高の時間だったと思います。文章が苦手な人も一生懸命書いていましたね。だから、みんなに思いが伝わったのでしょう。
何でも一生懸命にすれば、いつかどこかで、そして誰かに伝わることと思います。
結果だけに、こだわらず毎日を一生懸命に歩んで下さい。私からいつもの詩を贈ります♪

桜の蕾がふくらみ始める頃。
卒業証書を胸に、門を振り返る。
嬉しさとときめきを持って、新しい未来へと旅立つ。
明るい空の彼方へと。
何もかもがきらめいて、楽しさだけが甦る(よみがえ)。
制服でなく学び舎(まなびや)でなく、すべては心の中に。
体育祭、文化祭、修学旅行・・・
過ぎ去った日々は、こんなにも懐かしい。
希望と不安の中、門をくぐった入学式。
同じ思いを抱えて、巣立って行く。
数え切れない思い出と、友達という最高の宝を得て。
過ごした日々を覚えておこう。
これから歩き出す道しるべに・・・。

写真は去年の後期生徒会役員のメンバーです がんばってくれました
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