3年生より

 もうひとつの学年通信 N0.10 2008.1.23(水)2008.1.23
私は最近親になった。子育てというのは楽なものではないと聞いてはいたが、本当に大変だ。3ヶ月を過ぎ、5キロを超え、抱っこを続ける奥さんは腰痛に悩まされ、泣き声も随分大きくなってきた。赤ちゃんは泣くのが仕事、と言われているように、本当によく泣く。声を枯らしてまで泣くので、こんなんでいいのかな、と不安にもなる。ミルクをあげ、おむつを替え、それでも泣きやまないと抱っこし、それでも泣きやまぬ時はまたミルクをあげ・・・・・大人がしてあげられることの繰り返しでようやく泣き疲れて寝ていく。
 仕事で疲れて帰ってもこのような「子守り」が待っている。隣で息子が大声で泣いていても、疲れのあまり自分も寝ていて気づかず、奥さんにあきれられることもあるが、私には「任務」がある。息子をお風呂に入れるのは私の任務なのだ。ゆっくりと息子と過ごせる幸せな一瞬だ。どれだけ疲れていても、息子の顔を見るとそれが吹っ飛ぶ。息子の体を洗いながら、その日あったことを話す。私が話している内容はまったく理解していないだろうが、こちらを見て、聞いているような姿を見せる。そのうち「教師ってやりがいのある仕事なんやな〜」と思ったり「しんどそうやでやめとこ」と思ったりするのだろう。
 私は体育教師の父親の背中を見て育ち、前者を選択した。人の成長に携わる仕事に魅力を感じた。しかし、父親は自分の仕事や価値観を私に一度も押しつけたことはない。自分がやりたいこと、自分の進みたい道に進めるように金銭面や環境面などを整えてくれていた。だから息子にも自分の進みたい道を自分で見つけ、夢を大きく持って成長していってほしい。
最近みんなを見ていて、15年後の我が子はどんな考えで、どこに進もうとするのだろうと考える。自分で決めた進路なのだから、自信を持って自分の将来につなげていってほしい、と切に願う。

この通信は、毎日、朝明中ホームページの「3学年より」のページにアップしています。なつかしい写真もときどき入れています。

 写真は2年のときのエリック先生の授業風景

 もうひとつの学年通信 No.9 2008.1.22(火)2008.1.22
最近テレビ放映されているビールのCMに、懐かしの名曲が
使われています。『悲しいことがあると 開く皮の表紙 卒業写
真のあの人は(   )目をしてる』1970年代前半に、荒井由
美(現在は結婚して松任谷由美)が作った「卒業写真」という
曲です。いつ聞いてもどこか切ないバラードで、お気に入りの
一曲です。さて、その「あの人」(たぶん彼氏?まさか先生?!)ですが、どんな目をしてその後の「私」を見守っていてくれるのだと思いますか。答えはCMで。
卒業後何年かたって、ふと、何気なく卒業アルバムを見たとき、自分の中学校時代がどんなふうに思い出されるのかそれは人それぞれでしょう。辛いことばかりだという人もいれば、自分が一番自分らしく輝いていたと思える人もいるでしょう・・・。
僕は今、この広い宇宙の中できみたちと巡り逢えたことを、そしてともに学べたことを嬉しく、誇りに思っています。きみたちとはわずか一年間のおつきあいですが、いつの日か卒業アルバムを見たとき、きっと懐かしさで胸がいっぱいになることでしょう。3月11日には、厳粛な雰囲気の中、凛(りん)とした卒業式を迎えたいと思っています。
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27年間ずっと中学校で社会科の教師をやってきました。「社会」を教える際、常に大事にしないといけないなと思って心がけてきた(つもり)のことが幾つかあります。
○人権、平和、環境に関することは(教科書を離れてでも)詳しく丁寧に伝えよう
○表面的な事だけに終わらず、物事の裏側や普段なかなか見えない部分も伝えよう
○有名ではないごく普通の人々が一生懸命生きているナマの姿をきちんと伝えよう
等など、実際には意図したようには伝わらなかったかもしれませんが、少しはきみたちの脳を耕し、心に種をまくことができたとしたら、そして、いつの日か各々が(学んだことをいかして)自分なりの花を社会(=世の中)に咲かしてくれたら幸いです。
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 携帯電話のマナーモード機能――着信音のかわりにブルブルと震えるアレ――は、電話機の中にYシャツのボタンほどのバイブレーターが仕込まれていて、それが振動するわけですが、世界中の携帯電話に使われているバイブレーターは、日本のTという企業が一手に作っています。つまり、完全な「独占」状態です。サイズは世界最小(直径1cm 薄さ2mm 重さ0.65g)、そして消費電力も世界最小。日本の技術(というか現場で働いている人々の技術力)もまだまだ凄いもんです。こういうものを日々黙々と、頑張って作っている名もなき人々がいるってこと、電話する時、ふと思い起こしてみて下さいね。             
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卒業式が近づくとよく思い出す、題して『筍はあきらめない』 (集会で少し話したことですが)
教師になって3年目(新採の時から1年→2年→3年と担任として持ち上がったとき)のこと。担任していたAは、ふだんからちょっとずつはみ出す傾向があり、校則違反もしばしばある生徒だった。ときたま太いズボンをはいてきたりしてはガツンと説教をくらい、ふてくされていたが、怒られても暴れたり暴言をはいたりすることはなかった。もともと根はいい奴で、ひょうきんなところもあり、どこか許せる(かわいげのある)生徒ではあった。 そんなAではあったが、2学期の途中からしだいに悪さがエスカレートしていった。
巷にだけでなく、Aと僕との間にも冷たい風が吹き始めた頃、ある日Aは朝家を出たまま姿をくらましてしまった。お母さんに連絡し心当たりはないかとたずねたところ、前夜ひどく怒られたことがその原因ではないかとのことだった。職員室の先生方にその旨を報告、相談したところ、しばらく様子をみようということになった。ふだん一緒によくいる連中はちゃんと登校しているし、同級生のところにはいそうになかった。午前中何も進展がなかったので、許可をもらい午後から)一人で探しに出た。△△町で唯一の大型スーパーに行ってみたが、姿はない・・・、駅にも行ってみたが自転車はおいてない・・・。その他にもAが立ち寄りそうな場所を幾つか(と言っても、何せ当時はコンビニなんて皆無、校区に信号は2箇所しかなかった時代だから、そんなにない)あたったが、結局空振りに終わった。学校に帰り、だめもとでツッパリ系の卒業生のB(在校時にはボス的存在だった)に電話をしてみた。
「久しぶりやな、元気にしとるか。ところで、突然なんやけど、おまえん家(ち)にAが来てへんか?」 
「来てへん。」
卒業生のBは微妙に怒ったように言った。
「そうかあ・・・。じゃあ、もし家に来たら、悪いけど学校に電話してくれへんか。」
「するか、せんかわからん。約束なんかできん。」
 Bは、またしても微妙に怒ったように言って電話を切った。
結局、夜になってもAは家に戻らず、9時頃、Aのお母さんが心配窮まるといった表情で僕の下宿――僕が当時借りていた家賃3500円の教員住宅は、学校のまん前、Aの家から歩いて5分のところにあったのだ――を訪ねてこられた。お母さんは、Aの14年半にわたる壮絶かつ過酷な生き様を静かに話してくれた。途中からうっすら涙をうかべながら。聞いている僕も目頭が次第に熱くなった。彼のソリコミや金髪、喫煙やバイク、太いズボンや粗暴で落ち着きのない(今風にいうとすぐムカツク)行動の背景にはこんな重大な要因があったのか、と愕然とし、(知る由もなかったとはいえ)Aのことをなんて表面的な理解しかしていなかったんだろうと僕は落ち込んだ。
お母さんは日付が変わる頃、肩を落としながら帰っていった。
 次の日・・・。Aは行方不明のままだった。心配ではあったが、もちろん授業をしないわけにはいかない。Aのことを考えながら授業を進めた。1限・・・、2限・・・、3限・・・、そうこうするうちに、ついに一本の電話が鳴りひびいたのだった。                         〜後半は次号で

 もうひとつの学年通信 No.8 2008.1.21(月)2008.1.21
パラグアイの厳しさを見た 
 中学校生活もあとわずかとなりました。わたしのほうからは今回,数年前に新聞(中日スポーツ)に掲載された記事を紹介したいと思います。
わたしの趣味の一つに「スポーツ観戦」があります。会場へ足を運ぶこともありますが,最近ではおもにテレビ観戦です。どの競技であってもスポーツに真剣に取り組む姿にいつも感動させられてばかりです。
右の記事は,サッカーのパラグアイ代表のものです。国の代表選手でさえ(国を代表する選手だからこそ)いろいろなことに気をつかって生活しているようです。特に体調
管理に対しては,たいへんな厳しさがあるようです。そのような厳しさがあるからこそ最高のパフォーマンスを見せることができるのだと思います。
 さて,この記事からみなさんにも学ぶことがたくさんあるように思います。受験生であるみなさんにとっては,体調管理をしっかりしていくことなどがそうだと思います。そのためにも普段の生活に気を配り,自分に厳しくあってほしいと思います。先生たちも少しでも手助けができるよ うにしていきたいと思っています。

【ちょっとひとこと】
 ハンドボールがたいへん注目をされています。こんなに注目されることは過去にはなかったかな。わたしもハンドボールを愛する一人として,しっかり応援していきたいと思います。みなさんも,ぜひ,ハンドボールの日本代表を応援してほしいと思います。

 新聞記事より
 サッカーの国際試合、パラグアイを招いた日本代表は1−2で逆転負けをした。試合内容は別にして彼らの生活管理のすさまじさは「これもプロの一面か」と驚かされるものだった。
 来日したときの記者会見でラディスラオ・クパーラ監督は「長髪は何のプラスにもならない。若い選手は頭の手入れなどに気を遣わずプレーに専念すべきだ」と宣言、今回のチームには‘長髪選手‘は一人もいないことを明らかにした。長髪はアルゼンチン代表のパサレラ監督も禁止をうち出し世界的な選手でさえ「髪はまた伸ばせるが今でないと最高のプレーはできないから」と強制命令に従った例もある。全く個人の自由に任せている日本とは大きな違いだ。驚きはそればかりではない。関係者だけの非公開だったレセプションでは選手は全員、全く飲食はしなかった。酒はもちろん、水もノー。みな後方の壁に立ったまま見学していた。これまで数多くの外国チームが招かれたが、レセプションで一切手をつけない、というのは初めてだ。
 「何か気にさわったか」と驚いた日本サッカー協会幹部が尋ねると「食事は決められた時間にキチンととるのが体にいいのだ。こういうところではどうしてもいろいろ手を出したくなるもの。それでは慎重に作ってきたコンディションがだめになる。試合に勝ち経験を積ませるために来たのだから」と監督はまたまた強烈な返事。ガンと頭を殴られた感じの日本側は気恥ずかしく引き下がった。 「練習が遅れて」と平気で遅刻してきた日本代表とは心構えも違う。「世界の頂点を目指すには個人の欲望を抑え、規律をたださないと」との考えはなるほど、と思うところもある。彼らの試合運びのすばらしさの背景にはそれなりの理由があるのだ。

 写真は去年3月の総合発表会の様子

 もうひとつの学年通信 No.7 2008.1.18(金)2008.1.18
 昨年の10月29日、ずっと一緒に暮らしてきた祖母が亡くなりました。私にとって家族が亡くなるというのは初めてのことで、家族の死に直面するということは、こんなに悲しくて辛いことなのだなあと思っています。
 私の両親は共働きです。二人が働いてくれたおかげで、私も大学に行くことができたと思います。両親に代わって、ずっと私や弟の面倒を見てくれたのは祖母でした。
私たち家族にはいつもおばあちゃんがそばに居てくれました。おばあちゃんは自分で育てた野菜を私たちに食べさせてくれました。おばあちゃんのつくってくれるおかず、おまんじゅう、あられ・・・・・。手間ひまをかけてこしらえてくれたものは、どれも本当においしかったです。
 おばあちゃんは41歳で私の祖父を胃ガンで亡くしました。現在、自分がその年齢に近くなってみると、ずいぶん若い頃に辛い思いをしたのだなあ、どうやって子どもたちを育てたのだろうと驚くことばかりです。生きていくために仕事をし、祖父の看病のために幼い娘たちを連れて病院へ通う。その日暮らしていくのがやっとだったようです。祖母のお通夜の時、母やおばたちがその光景を忘れることができないと泣きながら話をしていました。そして、そのお金のない生活が私の祖母を強い人にしてくれたのだとも話をしてくれました。
 おばあちゃんから私たちもたくさんのことを教わりました。おばあちゃんの生きざまからも影響を受けました。私が特にすごいなあと思っていることは、手間ひまをかけて料理をするなどして生活すること、いつも家の中をこざっぱりして、自分も身ぎれいにしていることです。
大人になっても帰りが遅ければ、「心配してたよ」と声をかけてくれました。
 みなさんにとっても、家族というかけがえのない存在があると思います。受験や就職といった人生において大切な進路選択を迎えた今、みなさんが思っている以上に家族の人はあなたたちのことを大切に思い、心配してくれています。
 私は祖母の死を通じて、改めて命の尊さ、家族の大切さを感じました。大切な人を失ってしまうこと・・・・・こんなに辛いことはありません。
 みなさん!!今はわからないかもしれませんが、家族は大切です。人の命も大切です。おうちの人がかけてくれる言葉にうっとおしいなあと感じる時もあるでしょう。わかっていてもついつい甘えから、キツイ言葉で返事をしてしまうこともあるでしょう。でもそんなみんなが頑張っている姿を、きっと家族の人は温かく見守ってくれています。支えてくれています。素直な気持ちを忘れないでいてください。
 私たちの家族にとって大切なおばあちゃんは亡くなってしまったけれど、たくさんの思い出を残してくれました。そしていつも思うのは私たちの心の中に永遠に生き続けているということです。
人を大切に、周りの友達も大切にできる思いやりのある人でいてください。

 写真は昨年2月の職業体験です

 もうひとつの学年通信 No.6 2008.1.17(木)2008.1.17
「3000本のバドミントンラケット」
 
 ぼくは、昭和63年から平成3年まで、中国に古いバドミントンラケットを送る活動をしていました。
 えっ? どうして? どういうこと? ちょっと思い出話をさせて下さい。

 今、中国は世界でもっともバドミントンの強い国です。中国ではバドミントンはとても人気のあるスポーツで、小・中学校ではバドミントンが体育の授業に必修で取り入れられてもいます。バドミントン・エリートを養成する専門の小・中学校もあります。その育成のおかげで、今、世界ランキングの上位には中国選手がずらっと並び、中国代表になるのはオリンピックでメダルをとるより難しい、とも言われています。

 今では中国の多くの子どもたちが、バドミントンを気軽に楽しむことができます。しかし今から約20年近く前の中国では、決してそうではありませんでした。子どもたちがバドミントンをしたいと思っても、ラケットやシャトルが手に入るのは北京や上海など大都市に住むごく一部の子どもたちに限られていました。山間部や農村部に行けば、たった一組の古ぼけたラケットとすり切れたシャトル数個をみんなが交代で使う、というのは恵まれたほうでした。実際は、ラケットすらない学校がほとんどだったのです。子どもたちはバドミントンをしたくてもできなかったのです。

 このような現状をぼくはクラスメイトだった「高(ガオ)さん」から聞きました。高さんは北京体育学院(現・北京体育大学)から留学生として来日し、ぼくの通う大学院で、バドミントンの指導者になるための勉強していたのです。そして少しでも早く、少しでも多くの中国、特に山間部・農村部の子どもたちにバドミントンの楽しさを知ってもらいたい、と思っていました。そしてまだ使えるにもかかわらず、日本では買い換えなどの際に捨てられたり、古くなってもう使われなくなったラケットを自ら集め、そして北京体育学院を通じて中国の山村や農村に送っていたのです。

 当時,バドミントンをしていたぼくは、この話を大学のバドミントン部員に話しました。部員たちは、すぐに協力したいと言いました。そして近隣の大学はもちろん、あちこちの中学校や高校の先生にもお願いして、使い古しのラケットをいただきに回りました。県や地域のバドミントン協会にもお願いに回りました。そして集めたラケットは高さんを通じて北京体育学院に送られ、そして高さんの友人の周(ジョウ)さんによって山村や農村に運ばれて子どもたちのもとに届いたのです。4年間で約3000本を送りました。人口10億の中国からしてみればわずかな本数です。しかし中国から送られてきた、ぼくたちが届けたラケットを持って笑う子どもたち、楽しそうにバドミントンに興じる笑顔の子どもたちの写真を見るたびに、とても嬉しくなります。そして今、世界で活躍している若い中国のバドミントン・プレーヤーたちの中に、ぼくたちの送ったラケットを使ってくれた子どもがいたらスゴいね、などと、同窓会で集まるたびに話題になります。自己満足かもしれません。でもこの思い出はいつまでもぼくたちの宝物です。
 
 高さんとは平成5年以来、お会いしていないのが残念ですが、今でも杭州
(ハンジョウ・上海の近く)の中学校で先生をしておられるはずです
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