「罪を認める勇気」 少年・少女のグループが、公園で酔って寝ていた会社員から財布を盗み、捕まったという事件がありました。そしてその少年・少女グループの15〜17歳の少年・少女が、警察での取り調べで、 「酔って公園で寝ているのが悪い」と逆切れし全く反省の様子がない、という記事を読みました。
いい大人が酔って公園で寝込んでしまった、ということも確かにほめられたことではありません。 しかし「人の財布を盗んだ」という自分たちの犯した罪に対して、「酔って公園で寝ていたら財布を盗られてもしかたがない。だから自分たちは悪くない。」と「無罪」を主張する彼らの理屈は明らかに 「おかしい」のですが、なかなか彼らにはそうは思えないようです。
思い出すのは10年近く前の事件です。高校生の男女数人が、公園で寝泊まりしているホームレスの人を襲い殺害してしまったというその事件では、高校生たちが「公園に寝泊まりしているホームレスの人たちが悪い。社会に迷惑をかけているのはホームレスの人たちだ」と取り調べで話したことが大きなニュースになりました。今回の事件と同じです。
このような話は、周りをちょっと探せばいくらでも見つけることができます。自転車を盗んだ中学生が、「盗まれたくなければカギをかけておけばいいじゃないか」と開き直ったり、注意をした先生を殴った生徒が「先生の注意のしかたが悪い」と責任を転嫁(てんか)したりします。喫煙を注意された中学生が「吸わせたくなければタバコを売るな。タバコを売っているのが悪い」と平気で言い返したり、授業中にDSで遊んでいるのを注意された児童が「文句があるならDSを買った親に言え」と悪びれることなく言ったりします。
人はだれでも自分の失敗やあやまち、罪を認めたくはありません。失敗やあやまち、罪を認めることはとても辛いからです。できることなら逃れたいと思いますし、人のせいにしたいのです。自分の行動を正当化したいと思うのです。そうすることができれば、気持ちも楽になります。自分を正し、律する努力をする必要もありません。しかしそれでよいのでしょうか?
ぼくはどんな理由があるにせよ、あやまちや失敗、罪は「認めなければならない」ものであり、それに対する「償い」も必要だと考えています。ですから、自分の失敗やあやまち、罪を人のせいにして反省もせず、「あれはしかたがなかった」と勝手に納得したり、「当然じゃないか」と開き直ったり、「あいつが悪い」と人のせいにするようなことがあってはならないのです。辛いことですが、自分のあやまちや罪を認め、それをステップにしてもっと成長していこうという勇気(あえて勇気と書きます)が人を成長させていくのだと信じます。
神奈川の少年・少女たちにもそんな気持ちが芽生えることを願ってやみません。
写真は今日の6限目『私の答辞』学級発表会の様子
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